2013-05.16 橋下徹 大阪市長 「慰安婦の強制連行はあったのかなかったのか」登庁時 ぶらさがり取材
※従軍慰安婦問題は問題ではない ~ありえない強制連行説、日本軍に罪はなし~ <br />http://www.geocities.jp/vivelejapon1945/jugun.html <br /><br /> 従軍慰安婦という言葉は当時は存在しなかった。従軍という言葉は軍属という正式な身分を表す言葉であって、それは軍から給与をもらっていることを意味する。だが、慰安婦たちは民間の売春業者が連れ歩き兵士を客とした民間人である。すなわり、従軍慰安婦という言葉自体がまずおかしい。従軍慰安婦というデタラメの言葉は千田夏光という作家が『従軍慰安婦』という本を上梓したことがきっかけであるという。ただ慰安婦自体の存在は否定しない、慰安婦は確かに存在した。だが慰安婦は日本だけでなくフランスや土ドイツなどにも慰安所はあり当時では普通であった。また朝鮮戦争時にはアメリカ兵のために小倉、大阪(のちに奈良)、横浜などで日本人慰安婦の存在やヴェトナム戦争時にも慰安婦はいたし1958年まで戦後日本は売春が普通に行われていた。さらに現在でも違法ではあるが韓国には売春窟があるという(*1)。 <br /><br /> 慰安所の設置目的としては慰安所無しの軍隊の場合は占領地での強姦事件の発生の可能性があるので、慰安所設置でその強姦事件をなくすことができる。例えば慰安所制度を持っていなかったソ連はベルリン陥落時の強姦事件は有名であるし、ソ連軍が終戦直前に日ソ中立条約を一方的に破り満州に侵攻したときもソ連軍によるレイプ事件が多発したことも有名である。日本軍の占領地域では強姦事件はほとんど発生していない事実は武士道精神もあるだろうし慰安制度の果たした役割もある。つまり慰安所の設置は戦略的にも道徳的にも必要悪とでも言うべきであり、批判対象とはなりえない。 <br /><br /> 慰安婦は軍が強制的に連れてきたものではなく貧困などの理由でや女衒(慰安婦を集める仕事の人)にだまされたりなど悲しいケースではあるが、軍が強制的に連れて行ったものではない。悲しいからすべて日本軍のせいにするのはむしがよすぎるとしかいいようがない。たしかに、だまされた、親に売られたなどのケースは悲しいケースであるが、日本軍に責任転嫁は日本軍が強制連行や詐欺などをやっていないのだから責任転嫁はできない。従軍慰安婦の強制連行を主張する吉見義明中央大学教授は1997年1月31日放送のテレビ朝日系列の「朝まで生テレビ」において「日本の植民地(朝鮮、台湾)については、強制連行を示す資料はない」と言い切った。強制連行については以下のような証言もある。 <br /><br /> 「もしそんなことをしたら誘拐犯ですし、懲役刑を受けることになります。いや、法律の問題以前に、村の人たちにめちゃめちゃにされていまいますよ。強制的に連れて行かれる娘を見ながら、そのままにほっておくような卑劣な朝鮮人がいたとはけっして思えません。田舎であればあるほど、生活者の連帯意識も民族意識も強くてそんな彼らが黙って見入るわけがありません。彼らの民族愛がいかに強かったかは、私はいろいろな場面で見てきていますし、今でも鮮明に覚えています。そんな世界で女狩りなんてできるはずがないんです。(*2)」 <br /><br />このようにして強制連行説が崩壊したのちに反日日本人は強制連行ではなく、その強制性が問題であったといいだしたが、強制性が問題であるならば社会人は社会に強制的に労働させられているから奴隷なので賠償が必要だといっているようなものである。慰安婦になったケースでも自ら志願してなったケースもありもともと公娼や私娼であったものが収入が3倍以上になるので職場変更しただけで慰安婦となったこともある(*3)。またよく間違われるケースとして女子挺身隊と慰安婦を混合することである。女子挺身隊は慰安婦とはぜんぜん違うのだが、これをわざと混同し強制連行を主張するのである(*4)。女子挺身隊は慰安婦ではないしそのような活動もしていないのでこれは間違いである。 <br /><br /> 黄錦周(ファン・クムジュ)という人がいるが、この人は自らは強制連行の被害にあったと証言する有名な人であるが、この人の証言が実は有効な証言ではない。それは証言内容がころころ変わるからである。例えば高木健一著『従軍慰安婦と戦後賠償』では「生家が貧しく12歳の時100円で売られてソウルの金持ちの家で小間使い、1938年に咸鏡南道ハムン郡で女中をしていた時その家の娘の身代わりとなって満州に連行され慰安婦となる」と証言しているのに、1995年7月24日から27日夕刊の朝日新聞のインタビューでは「咸興の女学校在学中の17歳の時、1939年に国民徴用令で動員され軍需工場に行くと思っていたが着いたところは吉林の慰安所だった」と証言が一貫しない、しかもそのうえに朝鮮人女性に国民徴用令が出たのは1944年であるから1939年に徴用されること自体ありえない話である。しかも吉林には朝鮮人経営の妓桜が5件も営業していたこともあり吉林には慰安婦を置いていなかった。しかもこの黄錦周はその朝日新聞のインタビューの中で「最初の一年はその将校専属で昼間は兵卒の看病もした。三年目からは部隊内の慰安所で兵卒の相手、クリスマスには特に相手が多かった。カネは受け取っていない。そのまま部隊で終戦を迎えた日本兵は軍服を脱ぎ捨てて逃げいった。」とも証言しているがこれもありえない話である。軍医も衛生兵もいる部隊でなぜ慰安婦が兵卒の看病をするのか?日本軍にクリスマスなどなかったはずなのになぜクリスマスの時に客が増えるのか?なぜ日本軍は私服を持参していないのに軍服を捨てて逃げていったのか、また何を着て逃げて言ったのかまったくわからない(*5)。このような嘘を歴史的証言としては価値がゼロである。ただし、この黄錦周という人はある意味でかわいそうである、なぜなら嘘とわかっている証言をしないと韓国世論が許さないから死ぬまで嘘をつき続けなければならないからである。 <br /><br /> 吉田清治という人が『私の戦争犯罪 朝鮮人強制連行』という本の中で済州島での証言があるが、秦郁彦氏の調査によって吉田本人が嘘であると認めている。残念ながらこの嘘本は朝鮮語に訳され、今でもこの吉田証言は韓国で重宝とされていて、それが韓国政府の公式見解となっている。実は済州新聞の許栄善記者は署名入りで吉田が本を韓国語に訳し出版された1989年に8月14日の紙面に以下のことを書いている。 <br /><br /> 解放四十四周年を迎え、日帝時代に済州島の女性を慰安婦として二〇五名徴用していたとの記録が刊行され、大きな衝撃を与えている。(省略)しかし、この本に記述されている城山浦の貝ボタン工場で十五~十六人を強制徴用したり、法環里などあちこちの村で行われた慰安婦狩りの話を裏づけ証言する人はほとんどいない。島民たちは「でたらめだ」と一蹴し、この著述の信ぴょう性に対して強い疑問を投げかけている。 <br /> 城山里の住民のチョン・タンさん(八五歳の女性)は「そんなことはなかった。二五〇余の家しかないこの村で、十五人も徴用したとすれば大事件であるが、当時そんな事実はなかった」と語った。