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田島征三フリー・ペインティング 1988.10 上野 水上音楽堂

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10.2.27<br /><br />1987年に出た広瀬隆さんの『危険な話』をきっかけに、反原発運動が全国的に盛り上がり、私たちもちょっとですがかかわりました。<br />単に「放射能は恐い!」ではなく、原発や核爆弾から発生する(要するに、自然界のものではない)放射能は、私たち生き物の身体がまるで無防備であるため、特に細胞分裂の活発な赤ちゃんや若者が最も影響を受けやすく、白血病や癌の原因になること、しかもそんな危険なものが無味無臭であること、また核技術はその危険性ゆえ、一部の権力者やメーカーに独占され、秘密主義をはびこらせること(ちっとも民主的ではない)、危険にモロにさらされる地元住民の人間関係は、絶え間ない不安と推進側のばらまくお金によってズタズタに分断されること、などが少しずつ見えてきました。<br />もちろん、私たちは原発推進に「待った」をかけたのですが、そうした問題をまず多くの人たちと共有したかったのです。<br />一時期(ベルクをやる前ですが)、積極的に集会の企画に参加したり、ビラ作りしたりしましたね。<br />迫川は、原子力計画の研究者でありながら反(脱)原発に転じた科学者の高木仁三郎さんにインタビューに行って、「私にしか答えられない質問をして」とピシャリとやられ、震え上がったそうです(本を読む限り、優しそうな方だっただけに、なおさら?)。ただそのセリフ、迫川は最近、店のスタッフにそのまま使っていますが…(こわっ)。<br />私も、画家の田島征三さんに、ステージ上でロックバンドの演奏に合わせ、大きなキャンバスに絵を描いてもらうようお願いしたところ、突然怒鳴られました。こわかったですよ。確かに、「反原発」の一言で征三さんはすぐのる、と安易に考えていたところがあります。そうしたら、「こっちは命がけで描いているんだぞ!」と。<br />今思えば、その時の田島さんが48歳。ちょうど今の私と同じくらい(ちょっと若い)です。私たちは20代でした。いやー、今のバイトスタッフから見たら、私たちも恐い存在なのでしょうか。<br />でも、結局、田島さんはその話を引き受けて下さいました。それからの長~いお付き合いです、田島さんとは。ベルクの椅子とテーブルは息子の燃さんの作品ですし。<br />それにしても、原発は今、CO2を出さないから「エコ」とかいってまた正当化されようとしていますが(温暖化とCO2の因果関係すらまだよくわかっていない)、そんな単純な話でいいのでしょうか?<br /><br />(井野)<br /><br />CO2は諸悪の根源なのか?ベルク通信2007年3月号<br /><br />ちょうど原発問題に関心を持ち始め、貸しビデオ屋でメルトダウンの恐怖を描いた映画『チャイナ・シンドローム』(ジェーン・フォンダ、ジャック・レモン主演)を借りて見た直後に爆発したんですね。チェルノブイリ原発が。1986年の4月。声になりませんでした(この映画の公開直後、1979年3月にはスリーマイル島の事故が起きています)。よく、便利な生活にリスクはつきものと言われますが、その通りなんだけれど、そのリスクの大きさ(取り返しのつかなさ)を考える必要もあるんじゃないでしょうか。<br />田島征三さんのなつかしい写真が出てきました~。1988年。まさに、私が写真に目覚めた年。征三さんが描いている横で、3人の白衣の女の子が待機してるでしょ。これ、決まりだったんです。女の子(美大系の)3人、絵の助手をつけるのが。実は、私も1日だけやらせていただいたことあります。この日ではないんですが、征三さんは小室等さんとお二人で「はたけうたコンサート」というのを当時全国ツアーでされてまして、やっぱりステージで歌に合わせて絵を描いてらっしゃったんですね。そちらにどう?とお声がかかりまして。助手たちが征三さんの指示に従って泥絵の具で色をつくっていくんです。打ち合わせなし、助手どうしも初対面で、いきなり始まって。私はこっち系の色担当とか、もうその場で決めて。あがってる暇もないくらい必死でした。面白かった~。店長が、チャック・ベリーのバックをつとめたEストリート・バンドみたいと言ってますが、ベリーのコンサートもぶっつけ本番で、直前に会場に着いたベリーにスプリングスティーンが曲順を尋ねたら、一言「全曲、チャック・ベリーの曲」と答えたんですよね。でも、イントロが鳴れば、とりあえずどうにかなりそう?私たちの方が、インプロヴィゼイション(即興)性、高い?<br />チェルノブイリと言えば、本橋成一さんの『無限抱擁』が、ベルクの壁を使った写真展の第一回目でした。どうせやるなら、オリジナル・プリントで、と本橋さんの方からおっしゃっていただいて。注目集めましたね~。それから続々と著名な写真家が名のりをあげて下さいました。ところで、本橋さんの事務所に写真を取りにうかがった時、テレビの画像からただならぬ雰囲気が漂っていました。ニュースで地下鉄サリン事件を報じていたのです。1995年の3月でした。<br /><br />(迫川)

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