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横山文徳デザイン事務所【パゴダ・スリーブ】Design File

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横山文徳デザイン事務所【パゴダ・スリーブ】Design File <br /> <br />パゴダとは仏塔という意味で、その形のように袖つけはぴったりしていて、袖口へ向かって広がったものをいう。 <br />一重のものから、何重にもなったものまでいろいろある。 <br />また、このシルエットのワンピース・ドレスなどもある。 <br />(横山文徳) <br /> <br />参考資料:産経新聞(1997年7月9日) <br /> <br /> 「シャネルのアトリエで働いていて一番、感激したのは一九三六年以前に有給休暇が取れ、彼女の用意した田舎の従業員用宿舎を無料で使えたことです。しかも、三等ではなく全員が二等車の切符で出発した」 <br /> <br /> 一九二九年に十三歳でパリ・カンボン通りのシャネルのアトリエにお針子見習いとして入ったマノン・リギュエールはこう証言する。彼女は一九六〇年代から引退する七八年までスーツ部門の第一アトリエの主任を務め、シャネル自身のスーツや街着もすべて、彼女が仕立てた。 <br /> <br /> 人民戦線のレオン・ブルム内閣が労働総同盟(CGT)の代表らと二週間の有給休暇や週四十時間労働制を定めたマティニヨン協定を結んだのは六十年前の一九三六年六月七日である。歴史家のミシェル・ヴィノックは「労働者にとってのベル・エポックは人民戦線時代だ」という。 <br /> <br /> ドイツの再軍備の動きで軍事費とデフレーションが増大する中、国際的にも孤立したフランスは、その前の年の六月にはラベル内閣の下で緊急令を発し、賃金の一律一〇%削減を断行した。このため、座り込みストなどが続き、三六年四月にはストの参加者は商工業の労働者の四分の一に達していた。 <br /> <br /> ■長引く交渉 <br /> <br /> パリのシャネルの店でもピケが張られ、シャネルは店に入ることもできなかった。彼女は有給休暇、労働時間の短縮、労働契約などを拒否して三百人のお針子の解雇を発表した。しかし交渉は長引き、シャネルは最後に店を従業員に贈与すると提案したほどだ。 <br /> <br /> シャルル=ルーは「シャネルは仕事に厳しく、女性がよくやるおしゃべりも嫌いで男性的だった。しかし政治には無関心で、労働者は働くことが幸福なのだと考える反動主義者でもあった。顔を見たくないといって従業員を突然、首にしたことも何度かあった」と批判する。 <br /> <br /> マノンもシャネルの仕事に対する厳しさは認める。「マドモワゼル・シャネルはよく《マノンは泣かなかったわね。もっと泣かなければだめ》と言い、私が完ぺきに仕立てたと思った作品を解いた。でも、私にとっては良き先生だった。天才的センスがあり、そのアイデアは思いもかけなかった」 <br /> <br /> マノンはシャネルが針を持つのを見たことはなかった。シャネルは常にハサミを首からぶらさげ、ミンクのコートをジョキジョキと切ってボレロに作り直したり、訪問者のそで付けがまずいといって、その場でそでを直したりしていた。 <br /> <br /> シャネル・スーツの特徴の一つに飾りひもによる縁取りがあるが、それは「スーツ地の一部を解き、その解いた糸で飾りひもを作る」という凝ったものだ。これを発案したのもシャネルである。 <br /> <br /> 「マドモワゼル・シャネルに関しては、たくさんのことが忘れられている。店の給料は良かったし、有給休暇を三六年以前に実行しただけでなく従業員の医療費も支払った。今の社会保障制度を先取りしていた」とマノンは指摘する。 <br /> <br /> 有給休暇を取ってマノンらが出掛けたのはフランス中部のランドの広大な土地に建てられたバカンス用の宿舎だった。当時、お針子だけでも約四百人いた。彼女たちは、交代で二週間の有給休暇を楽しんだ。従業員数は三五年には約四千人に達していた。 <br /> <br /> フランスでは金持ち階級がすでにバカンスの習慣を持っていたほか、軍人や一部役人、銀行員にも有給休暇制度があった。しかし労働者にとって一九三六年まで、有給休暇は夢のまた夢であり、人口の一割、数百万の国民は海を見たことがなかった。 <br /> <br /> 車はぜいたく品だったので、大半の国民は自転車でバカンスに出発した。三六年に約五十二万台だったフランス国内の自転車台数は三七年には八百万台に跳ね上がる。自転車には家族や荷物を乗せる付属車が付けられた。 <br /> <br /> バカンス用に四〇-五〇%の列車割引も実施され、パリから南部に向かう列車の出発駅であるリヨン駅からは同年八月、二十万人が出発している。 <br /> <br /> このバカンス制度は右翼団体などから「怠惰制度」と非難され、第二次大戦の緒戦でパリが陥落し、フランスがドイツと休戦条約を結んだときにはブルムはバカンス制度導入の責任を問われている。 <br /> <br /> しかし、ブルムは「休暇は困難な生活のつかの間の晴れ間。労働者をキャバレーから引き離し、家族だんらんや将来の設計を考える機会を与える」と反論し、共和政の施策を否定したビシー政府も唯一、バカンス制度だけは維持した。 <br /> <br /> フランスは第三共和政からビシー政府を経て第四共和政、そして現在の第五共和政へと変わるが、左翼政権も保守政権もバカンス制度は一種の国民懐柔策として堅持した。休暇の期間も五六年に三週間になり、六九年には四週間、八一年には五週間に延長された。 <br /> <br /> ■最後の輝き <br /> <br /> バカンス制度は自動車の普及もうながし、シトロエンの名車「ドゥー・シュボ(2CV)」など小型車の発達を助けた。またパンタロンやTシャツ、セーターなどのリゾート・ウエアが大衆化した。すでに二〇年代にこうしたものを流行させていたシャネルはその点でも時代を見越していた。 <br /> <br /> シャネルの私生活にも大きな変化が起きていた。一九三〇年にディミトリ大公の仲介で知り合ったハリウッドの大プロデュサー、サミュエル・ゴールドウィンとハリウッド映画の衣装担当契約を結び、三一年にはハリウッド入りする。 <br /> <br /> 三二年には当時、愛人だったポール・イリーブの勧めで宝石展を開催し、「同い年の彼との結婚を真剣に考えた」(シャルル=ルー)という。しかし、イリーブは三五年夏、シャネルの南仏の別荘のテニスコートで倒れ、急逝する。 <br /> <br /> シャネルがフォーブール・サントノーレからホテル・リッツに引っ越したのは三四年春だった。イリーブとの結婚に備えるためなのか生活を簡素化する必要からだったのかは不明だ。 <br /> <br /> モード界では三五年にイタリアのエルザ・スキャパレリがバンドーム広場に店を出し、独自のセーターがスポーツ・ウエアとして人気を集めてシャネルを脅かした。スキャパレリは一九五四年に店を閉めるが、シャネルは初めて追われる立場に立ったといえる。 <br /> <br /> 一九三七年のパリ万国博の夜会で、シャネルはオーガンディのベールに身を包み花の王冠をいただいた。その美しさにだれもがみとれたといわれるが、それは栄光の最後の輝きのように見えたかもしれない。 <br /> <br /> 一九三九年九月、第二次大戦開戦。シャネルは香水とアクセサリー部門を除いて店を閉め、約三千人の従業員に暇を出す。そしてドイツ占領下のパリで日々を過ごした後、戦後は一九五四年までスイスに閉じこもった。 <br /> <br /> 【豆事典】 <br /> <br />▼第4共和政(1946-58年) 第2次大戦で連合軍によりパリが解放された翌月の1944年9月、フランスではレジスタンス(対独抵抗運動)の英雄ドゴール将軍を首班とする臨時政府が成立した。しかし、戦後の議会選挙では共産党、人民共和派、社会党の3大勢力が勝ち、ドゴールは議会主導の政治体制に反発して

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