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秀吉 天下統一の過程示す書状 2016年01月21日

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秀吉 天下統一の過程示す書状 <br /> <br />兵庫県たつの市に残されていた、豊臣秀吉の手紙33通を、東京大学で修復した結果、信長の死後の家康との戦いの状況などが詳細に記されていることがわかり専門家は、秀吉の天下統一の <br />過程や大陸への野望を伺える貴重な史料だとしています。 <br />この手紙は、たつの市の龍野神社に伝えられていたもので、火事で傷んだあと、市の依頼で東京大学史料編纂所が2年間にわたって修復したところ、豊臣秀吉が、部下の1人で、のちに子孫が <br />龍野藩主となる脇坂安治に宛てた33通の手紙とわかりました。 <br />このうち1通は、秀吉が、織田信長の死後、その子の信雄と徳川家康の連合軍と争って局地的な戦いで敗れた小牧長久手の戦いのおよそ5か月後に書かれたものです。 <br />敗戦のあと、秀吉が、尾張の3つの城を攻め落とし、北陸の戦線でも有利に立っている状況を説明し、信雄と家康から人質を差し出して和睦を求める申し出があったことが記されています。 <br />その上で、和睦の意志はないとして伊賀を攻める準備を進めるよう脇坂に指示していて、危機を乗り越えようとした時期の秀吉の政治や軍事の具体的な動向が伺えます。 <br />また「文禄・慶長の役」で朝鮮に派遣された水軍にいた脇坂への手紙では、中国の明まで制定すると書かれ、秀吉の野望がうかがえます。 <br />中世の日本史が専門で、文書を復元した東京大学の村井祐樹・助教は「秀吉の天下統一の初期段階の資料は少なく、今回の手紙の内容は、まったく伝えられていなかったもので極めて貴重だ。 <br />部下に対して何度も指示を出して、かなり細かい人間だったこともうかがえる」と話しています。 <br />2016年01月21日 18時56分

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